「トミーポルカ」、ビールを呑んだサムライ立石斧次郎と戸田

この戸田地区が、先月のニューヨーク・シンフォニックアンサンブルのコンサートで紹介された「トミーポルカ」のトミーこと、立石斧次郎の終焉の地であることを知ったのはごく数日前のこと。http://
立石斧次郎のひ孫さんのサイトを見つけてからのことだ。
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立石斧次郎は、今からちょうど150年前の万延元年の遣米使節団に若干17歳にして通訳見習いとして加わった人物。この時、勝海舟は咸臨丸に乗りこみ正使の乗ったポーハタン号の護衛として太平洋を渡っている。

この使節団の中で最も人気のあったのが、お茶目で英語も達者だった通称トミーこと立石斧次郎少年。
この斧次郎にちなんで作曲されたのが「トミーポルカ」で、当時のアメリカで爆発的にヒットしたという。http://
立石斧次郎にはビールを汲みかわす写真も残されている。幕末にこのようなラフな姿のサムライの写真が撮影された驚きだ。立石斧次郎はよほどヒョウキンな人物だったのだろう。
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帰国後の斧次郎は将軍の通訳に起用されたりしたが、戊辰戦争では大鳥圭介率いる幕府軍の将校として各地を転戦、幕府軍崩壊後には上海に逃れている。
明治の世になっても、その語学力を買われ幕臣にもかかわらず通訳として岩倉使節団に加わり、大久保利通や木戸孝允らとともに再びアメリカに渡っている。
この時、津田梅子を含む留学生の女の子の部屋に侵入し声をかけたのがバレて日本初の裁判にかけられたりしている。
今ならば笑って済まされることだろうが、当時としてはあまりにも大陸的でフランクな性格が災いして次第に栄達の道からドロップアウトしていく。
その斧次郎が終の棲家としたのが戸田だった。
こんな時に戸田に仕事で行くことになったのも何かの縁。
仕事が片付いた後、ついでに戸田図書館で斧次郎関係の資料を漁ったが何も出てこない。
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ひ孫さんのサイトに書かれていた斧次郎の家があったという飽海という地名も地図には見当たらない。地元の人に聞いても斧次郎の名どころかそのような地名も知らないという。
才と志があれども歴史の主流に乗り遅れてしまった人は、名を残すこともなく次第に忘れ去られていく。
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