博多から吉野ヶ里へ
鈍足の台風27号は進路を変えて上陸の可能性はなくなった。これから偏西風に乗り速度を上げて早くに遠ざかってほしいもの。
昨日は東京出張。
現地で他組織のお偉方と合流し、昼食会を経て予定された行事をこなす。
相手がテレビで見かけるような著名人たちなので気苦労多し。疲労困憊で帰宅。
帰りが遅くなり先週に引き続きオケの練習はまたもや欠席。
以下は先週末の福岡旅行の備忘録です。
先週の金曜から娘が出場する全日本吹奏楽コンクール一般の部を聴くために家内と一緒に福岡へ。
このような旅は松山、青森に続いて3度目のこと。
吹奏楽コンクールの職場・一般の部は全国持ち回りなので、この種の全国行脚も良いものだ。
福岡までは前回の青森同様、金曜の夜に発つ高速バスを利用。
乗車時間は青森を上回る13時間余り。国内最長距離を走る高速バスらしい。
下の娘の居る横浜から乗ることにして夕方に娘と待ち合わせ一緒に食事。
その後19時40分発の西鉄のライオンズエクスプレスに乗車。
先が長いので、持参したタブレットで映画でも見ようとしたら車内にコンセントがない。
座席が狭く快適とは言えない13時間余り、外を見ても暗闇が広がるばかり。
早朝に寄った下松SAは雨。
博多バスターミナル到着は定刻より15分遅れの9時。
朝食は駅ビル地下のお店で牛タン定食。およそ博多らしくない食のスタートとなった。
プラス150円で明太子と卵を付けておく。
そのまま鹿児島本線に乗り本日の最初の目的地、佐賀吉野ヶ里へ。
鳥栖で熊本本線に乗り換え、博多からおよそ40分余りで吉野ヶ里駅へ到着。
駅は比較的新しい建物。おそらく遺跡発見前は散村の無人駅だったのではなかろうか。
土曜日とはいえ降りる客は少なくブームは去ったような印象。
駅を降りたら吉野ヶ里の特徴的な望楼が見えることを想像していたのだが、周囲を見渡してもごく普通の農村風景が広がるばかり。
駅のホームで掃除をしているおばさんに「吉野ヶ里遺跡はどこですか?」と聞くと。
指をさして「あそこで聞いてください」との無愛想な返事。
指の先には観光案内所。女性職員が二人暇そうに座っている。
ここで場所を聞くと、西方の遙か遠く(のように見えた)銀色のアーチのようなものが見える場所だという。
家内と二人で小川沿いの道をとぼとぼと歩く。
両サイドには稲刈りが終わった田が広がっている。小川で沢山泳いでいる小魚はフナではないようだ。ハヤかな?
歩くこと15分ほどで吉野ヶ里公園入口。
入口ゲートから公園内に入ると雨がポツポツ降り始めた。雷が多い所らしく雷への注意書きが目に付く。
しばらく歩いても望楼はいまだ見えず、そのうち周囲を乱杭に囲まれた空堀が見えてきた。外敵をはばむ城塞都市の出現。
身分の低い人たちの住居が集まる南郭、そして大人(タイジン)と呼ばれた支配層が住んでいた北郭を順に回る。見学の人は数人ほど。
郭内にたむろしている人々は弥生人の服を着たボランティアさんたち。
土器で何かを煮たりしている。
3年前に訪れた青森の三内丸山遺跡は、荒涼とした雰囲気の中には古代の摩訶不思議な妖気のようなものが漂っていたが、吉野ヶ里では開放的な明るさの中に、現代社会へ近い俗のようなものが濃厚に感じられる。
三内丸山と吉野ヶ里の、2000年の時間差と北国と南国との場所の違いは大きく、文化や思想のみならず全く別種の人々が暮らしていたことを肌で感じ取れたのが貴重な体験だった。
資料館の中には甕棺の中の首なし人骨や矢じりを多数撃ち込まれたまま埋葬された人骨、そして杭に囲まれた堀と高い望楼、常に戦時体制であった緊張感が顕著。
この時代は身分の差が歴然となり、富の争奪のための戦争に明け暮れた暗い時代だったのだろう。
復元された建物群全体に感じられる南国的な平和な明るさと実体との大きな違和感。
支配者が埋葬されたという墳丘は、沼津で数年前に発見されたほぼ同時代の前方後方墳、高尾山古墳と似ている。あのあたりも発掘すれば同じようなものが出てくるのだろうか。
公園内の無料の資料館でいただいた「魏志倭人伝」の解説文は、移動の電車中の良いひまつぶしになった。
遺跡内を散策しているうちに2時間余りが経過。
お昼の時間も過ぎたのでゲートを出て再び駅までの道をとぼとぼと歩く。
次の目的地は太宰府。
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