シューマンのミサ曲ハ短調
秋の長雨も昨日から一時休止。今日も晴れている。
山では再び蝉が鳴き始めていた。
土曜の夜に気温が下がった影響で、昨日早朝の富士山は微かに雪を被っていたが、直ぐに溶けてしまって初冠雪として記録されていない。
「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざは今年については例外のようだ。
今日の最高気温は31度。
風邪は自然と治っていた。
昨日夕方の我入道海岸。
富士山がずいぶんと近くに見えていた。
芹澤光次良文学館の周りの公園に人が群れていた。
ここもポケスポットが集中している場所なので、ポケモンGoの影響なのだろう。
遊具があり幼い子連れの若い茶髪の母親が多いのが特徴的。

かつてのこの場所は、夕刻は恐ろしいほど閑散としている場所だったのだが。
音楽はシューマンの宗教音楽を聴いていた。
曲はミサ曲ハ短調。

・ミニョンのためのレクイエムop.98b
・ミサ曲ハ短調op.147
ミシェル・コルボ指揮
リスボン・グルベンキアン財団管弦楽団&合唱団
オードリー・マイケル(S)
リリアーナ・ビツィネケ=アイジンガー(MS)
エリザベト・シルヴェイラ,スザンナ・テイセイラ(A)
マルクス・シェーファー(T)
ミシェル・ブロダール(BS)
1988年録音
シューマンは、特定のジャンルの作品を一時期に集中して作曲するのが特徴で、
作品1から1839年までの、いわゆる「ピアノの年」と言われているこの10年間は全てピアノ曲。
ところがクララと結婚した1840年を境に突然「歌曲の年」が始まり、
1840年の一年だけでも「リーダークライス」「女の愛と生涯」「詩人の恋」などの傑作が集中して書かれ、歌曲だけでも百数十曲というすさまじさ。
そして1841年は、交響曲第1番「春」、交響曲第4番の初稿、3楽章の交響曲とも呼べる「序曲、スケルツォとフィナーレ」、ピアノ協奏曲の初稿などの主要なオーケストラ曲が集中的に書かれ、翌1842年はピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などの「室内楽の年」
その中で宗教音楽はシューマンが手を付けなかった最後の分野だった。
1848年にデュッセルドルフの合唱団の音楽監督としてバッハやパレストリーナの宗教作品に触れるうちに宗教音楽に興味を持ち始め、1852年から集中的に宗教音楽を書き始めている。
シューマンは祖父がプロテスタントの牧師で、自身もプロテスタントであったもののミサ曲やレクイエムも書いている。
いずれも典礼用ではなく演奏会で演奏されることを前提とした作品のようだ。
だが精神を病んでいたシューマンには残された時間は少なかった。
2年後の1854年にはライン川に身を投げ、救われたものの以後その死までの作品は残されていない。
このミサ曲は1853年に部分的な初演がなされ、全曲初演はシューマンの死後だった。
出版のためにクララ・シューマンはブラームスに援助を求めたものの、ブラームスは積極的な態度を示さなかった。
師シューマンの作品としては霊感に乏しい作品と判断したのかもしれない。
ブルックナーはこの作品に霊感を得て2つのミサ曲を作曲している。
ライナーノートの解説にはシューマン最後の作品とあるが、この曲に前後していくつかのピアノ曲やヴァイオリン協奏曲が残されている。
手持ちの演奏は、コルボ指揮のリスボンの演奏家たちによるエラート原盤の国内盤CD。
同じシューマンの「ミニヨンのためのレクイエム」とのカップリング。
フルオケにオルガンが加わった演奏時間40分を超える力作。
グローリアやサンクトウスの壮大なフーガや、各所で聴かれるアリアも必要十分な語り口では鳴ってはいるもの、脆く実体のない幽霊を見ているかのような印象でどこか空虚。
ブラームスは譜面を見て何かを直感的に感じ取ったのかもしれない。
演奏の性格のためだろうか、明るい響きの中に宗教曲としては影の薄さを感じさせる作品だ。
一方の「ミニヨンのためのレクイエム」の方が曲は短いながらズシリと聴いた手ごたえを感じさせる。
このミサ曲はサヴァリッシュも録音しているようなのでいつか聴いてみよう。
Youtubeはシューマンのミサから「アニュスデイ」
| 固定リンク
「音盤視聴記録」カテゴリの記事
- ベームとベルリンフィルのモーツァルトの交響曲全曲録音のことなど(2025.06.24)
- クリストバル・デ・モラーレスのモテトゥスのことなど(2025.06.22)
- ブレンデルのバッハ(2025.06.18)
- オランダ王立海軍軍楽隊のアルメニアン・ダンス(2025.06.06)
- ジャン・ラングレーのミサ曲のことなど(2025.06.03)
コメント